こんばんは。

3時に起きて、苗の管理をして

バスに乗って東京へ。

小豆大会の開催場所です。

 

小豆好きの者として参加必須のイベントであります。

会場には7種類の小豆

(北海道産3種類、海外産2種、京都産、出雲産)

を食べ比べました。

 

 

食べ比べって、

こっちよりこっちが美味しい

これはこっちより美味しい

だから、

これが一番でこれが2番でって

感じだと思うのですが、

そうじゃないんですよね。

美味しさには絶対的な基準はありません。

常に相対的だということです。

餡子が嫌いって人、にたまに出会います。

それは、

まずい餡子しか食べたことがないからです。

で、人生に置いてそれ以降

餡子を食べることを

諦めています。

 

これは「人生の餡ロス」と呼ばれる問題です。

はじめに食べた餡子の味が“まずい”という認識

でその人の記憶にへばり付きます

ゆえ、

「餡子なんてまずい、小豆なんて嫌いだ」

という固定観念がその人の中で生まれ、

育っていきます。

 
 

ですから、

目の前に、餡子、そうですね、

例えば、恋人が七夕プレゼントに

餡子をくれたとします。

そしてこう思うのです。
 

「あっ?餡子?なんでこんなまずいものを」
 

しかし、
この人は大きな間違いを犯しています。

それは、

恋人が作った餡子をまだ口に入れていないのに

「この餡子はまずい」

と評価を下していることです。
 

いつから、この人は預言者になったのでしょうか?
 

“恋人が作った”餡子

まだ口に入れたこともないのに

どうして

『まずい』という評価をくだせるのでしょう。

 

 

で、

結局食べずに冷凍庫に保存するのです。

こうなれば、関係は悪化する一方です。

そして、いつぞや別れる時がくるでしょう。

この人は、部屋の片隅で悲しみにくれます。

そのうち氣分転換に

冷蔵庫の掃除でも始めることでしょう。
 

「あ、これはあの子からもらった餡子だ。

せっかくだから食べよう。捨てるの勿体無いし」

 
と言って、冷凍庫から取り出した

餡子を眺めながら、
 

「いつからだろう。あの子との関係が

こんなに冷たくなったのは。」
 

とつぶやきました。

2時間後、この人は、

ここで初めて恋人が作った餡子を口にします。

「えっ、餡子ってこんなにうまいのか」

 

「どうして、あの時、すぐに食べて

“美味しい”一言を伝えることができなかったのか。」

 

と独り寂しい氣持ちでしょんぼりします。

しかし、時遅しです。

いくら後悔しても恋人との関係が修復することは

ありません。

ただ、この人の中で

餡子に対する評価が変わったことは確かです。
 

ー別れる前ー

餡子はまずい
 

ー別れたあとー

餡子はうまい

 

 

絶対的な評価とは、この人がいつの時代も

どんな環境で

どんな餡子を食べても

「餡子はまずい!」

と評価を下すことです。

しかし、今回のケースでこの人は、

「餡子はうまい!」

と評価したわけです。

このように、

美味しさというのは、

その人自身の中にある評価軸(過去食べたものの経験、

美味しさデーターベース)

を元に、

決定されます。

そのデーターベースは、

一人一人違うということです。

人間の数だけ、データーベースが存在します。

なぜなら、
 

誰一人として、

同じ時代に

同じ環境で

同じものを食べて

生きてはいないからです。
 
 

逆に言えば、
 

一人一人が


違う時代に


違う環境で


違うものを食べて

 
生きている

ということです。

 

 

  

 

なんのために食べ比べるかって

自分と相性の小豆を見つけるため。

これは小豆に限らず、食事全般についてもそう言える

と思います。

ということは

美味しさ比べをするときに

比べているのは、

隣の小豆と比べている訳ではなく、

過去の自分の小豆経験、餡子経験

を元に比べているのです。

例えば、

お家でお祖母さんが作ってくれた餡子

の味が美味しい基準になって入れば

それに似た餡子、小豆を美味しいと感じるでしょう。
 

もしくは、お氣に入りの和菓子屋さんの味が

あればそれを基準にするでしょう。

それ故、

食べ比べというのは、

 

隣の小豆がうまい、まずいと理屈をこねくり回すことではなく、
 
 

自分にとってこの小豆が

美味しいか美味しくないか
 
 

を感じる行為です。

では何のために比べるのでしょう。

それは小豆が持っている未知なるポテンシャルとの

出会いのためです。
 

今回、小豆は、

名前を隠したまま試食しました。

X番の小豆は〇〇産◇◇品種

という情報を隠して、ただただ1~7番の小豆が

テーブルの上に並べられ、それぞれの番号に

煮小豆状態

砂糖入り状態

で提供されてました。
 
 

北海道十勝産きたろまん

北海道十勝産えりもしょうず

北海道十勝産きたのおとめ

京都産京都大納言

島根産出雲小豆

カナダ産えりも種小豆

中国産天津小豆
 
 

という情報がわからないまま

ただただひたすらに小豆を食べまくるのです。

私は食べまくりました笑

なぜなら小豆が好きで、

新しい小豆の味に出会えるかもしれないと思っていたからです。

もし、あらかじめ

N番がえりもしょうずという情報が与えられて入れば

私はそれを贔屓目に見ていたでしょう。

なぜなら、

私にとってえりもしょうずは一番馴染みのある

小豆の品種であるからです。

もし、あらかじめ

N番がきたろまんという情報が与えられて入れば

私はそれを贔屓目に見ていたでしょう。

なぜなら北海道からその生産者の方がお見えになっていたからです。

農家さんの前で、この小豆が他のものより美味しくない

と評価されるのは寂しいですからどうしても

高評価したいというバイアスがかかるのです。
 
 

でも今回の目的は、

「小豆との新しい出会い」

です。

ですから、

私は途中から、小豆を味わうことに専念しました。

産地当てクイズの面もありましたから

必死で全問正解してやる!と意氣込んでおりました。 

小豆好きの私ですから

産地当てクイズの結果は言わずもがなです。
 

そして、自分の中で

「ワォ!この小豆うまいやん!」

ってのが発見されました。

そして、のちにそれが、

島根産出雲小豆(大納言)

であることが判明しました。

また面白いのが、元のタネは

京都産京都大納言であり、

京都で生産されているか

出雲で生産されているか

の違いなのです。
 

これは生産地によって味が変わるということです。

まぁ野菜の世界ってそれが当たり前の世界では

あるのですが

やっぱり驚きというかすごいなぁというか

面白いなぁとつくづく感じます。
 

安納芋のケースに何かが似ているなと思いました。

ここでは触れませんが

氣になる方はこちらを↓

安納芋 〜70年目の真実〜

 

それと、

炊き方は全て全自動小豆炊き機(多分こんな

名前でした)を使って

仕上げられていましたので炊き方による味への影響は

無視できます。

比べるとき、条件を揃えるって大切なことです。

会場には和菓子屋さんもいらしていました。

餡子は40分の数分でも火入れ時間が

違うと仕上がりが全く異なる。

砂糖の種類によっても。

と話しておりました。

これはつまり

たとえ同じ品種の豆を使っていても

調理方法によっても味が大いにことなってくる。

さぁこうなってくると、

普段私たちが食べているものの味というのは、

タネの種類✖︎栽培者✖︎調理方法✖︎食べる人

で決まるということです。

仮に全世界で小豆の品種が7種類しかなくて

栽培者も七人しかいなくて

調理する人も七人しかなくて

食べる人も七人しかいない世界だったとしても、

7*7*7*7=2401通りの味わいが存在する

ということです。

現実世界は28人以上人口がいますから

2401通りというのは過少すぎるくらいの

組み合わせであることは言わずもがなです。
 

一日1通りづづ試せば7年で全てを制覇できます。

とはいえはじめに食べた7年前の1番目の小豆と

7年後に食べた2401番目の小豆とを比べることなどできますでしょうか?

人は歳をとります。

7年前の大切にしていた価値観が変わることなんて

ざらにあります。

ということは、

常に食べ物との出会いは一期一会

 

その時、

その場所でその人とあの人とあの人が作った

あの人が届けてくれたその味を味わえるのは

というのは一生に一度だけです。

一生に一度ということは、

味わいには無限の可能性があるということです。

さて、今日のあなたは

何を食べて生きてゆくでしょう。

今日も誰かと何かを比べるでしょうか?

あの人はこうだからこうに違いないと

話もせず見た目だけ、

周りからの評価でその人の価値を判断していないでしょうか?

えりもしょうずが好き

というレッテルでその人自身の姿も

判断していないでしょうか?

人間関係において大切なのは

出会った二人でどんな楽しいことが

生み出せるかということだけです。


 


 


 

人は度々他所からの視点を感じ

自分の言いたいことが言えません。

例えば、今回の試食会でも自分の感想を言う乗って

勇氣のいることです。

Aさんが美味しいと言っていたものを

自分は美味しくないと感じていたら

それは少し氣まずいのです。笑

でもいつまでたってもそうした本音を隠したまま

自分の意見を言えなくなるのは

結局は、自分自身の感性に蓋をし続けることになります。

蓋をするのは

小豆を炊く時だけで十分です。

ですから私はこうして、蓋を開けて

自分の意見を述べています。

餡子を炊く時は蓋を開けないと砂糖も入れられないのです。

これから書くことは小豆の食べ比べの私の感想です。

先ほど産地当てクイズの結果は

言わずもがなと申しましたが念のため、

私が予想した産地と実際の産地とを

記載しました。

またなぜその産地だと予想がついたのか

についても一部記載しています。
 
 
左が砂糖入れて煮たやつ
右がただ煮たやつ

予想:島根産出雲小豆

水分は含んでそう。中身の密度が薄いと言うか

低いと言う感じ。砂糖を入れた状態の色鮮やかさは

大好きである。

正解:京都産京都大納言

*大納言だと聞いていたので純粋に

粒が大きいものを探すと①か⑥しかない。

1よりも6の方が美味しかったので

美味しいと言えば京都だろうと思い

美味しい方(6)を京都だと予想した。

しかし違った*
 
 

予想:北海道十勝産えりもしょうず

香りが好き。食感も程よくて好き。

正解:北海道十勝産きたのおとめ
 

予想:北海道十勝産きたのおとめ

少し甘いかも。(砂糖を入れずとも)

正解:北海道十勝産きたろまん

予想:カナダ産えりも種小豆

一番硬い、選別が雑。

ただこれが好きな人もおる

正解:カナダ産えりも種小豆

*4番の小豆はある意味一番個性があった。

選別が雑があるゆえ、粒が揃っていない。

煮えムラも甚だしいし、硬い。

しかし、砂糖で煮たやつは、テカテカして

いて綺麗だった。一見、雑な感じは

中国だろうと思ったが考え直した。

過去、中国産の小豆で作った

業務用餡子を試食したことがあり

それは、ちゃんとした餡子だったからだ。

中国だから雑というのは

レッテルに基づく判断である。

ゆえ、私の馴染みのないカナダ産

を悪役に仕立てた笑*
 

予想:北海道十勝産きたろまん

ファーストに感じる香りが好き。

正解:北海道十勝産えりもしょうず

*正直北海道三兄弟(三姉妹)はどれも美味しかった

ということは。これらを全てブレンドすれば

私にとっての好きな小豆の味に仕上がるであろう*
  

予想:京都産京都大納言

皮柔らか、中身との一体感が好き、同時にとける。

一番好きかも!

これに①の鮮やかさがあれば最高!

正解:島根産出雲小豆

*①で解説した通りでこれはうまい!

だから京都だ!と思った。でもこれも私の

イメージというか京都のものはうまい

という認識が先行した結果となった。

本当に美味しかった*
 

予想:中国産天津小豆

密度が良い。

正解:カナダ産えりも種小豆

*中身がしっかりしていて美味しかった。

以外に中国かもと思ったが違った*

 

と言うことで、

産地当てクイズは全問不正解なのでした

しかし、

私は普段から小豆好きであることを

周りに言いふらしておるため、

「なんだよ!小豆好きのくせに全問不正解かよ!」

とツッコミを入れてくる人もいるかもしれません。

その通りです。

私は小豆好きだけれど全問不正解だったのです。

でも私は、

正解不正解よりも

たくさんの良い小豆と出会えて幸せです。

昔勤めていた和菓子屋さんで

餡子に対する原材料の指針みたいなのを

教えてくれました。

最高の材料を使うのではなく

最良の材料を使って餡子をねる

最高ではなく最良。

 


良いとは誰にとって良いのでしょうか?

 

最高とは、

最高級とか最高標高とか最高値という

形で使われています。

つまりはナンバーワンということ。

でもそのナンバーワンは結局他人が決めた基準の中での

ナンバーワン、それを使うことが

自分にとって最良であるとは限らない

ということです。

良い悪いとはあくまで

自分の理想の味にとって良い悪いということ。

それは企業にとってみれば経営理念に沿って

いるかどうか。

ですから

全ては目的があってこそ

生きる材料になるのです。

目的なき材料は

たとえどれだけ最高のものを使ったとしても

その能力が生かされることはないでしょう。
 
 

野菜の世界では

栽培方法による野菜の味の評価が

よくされます。

オーガニックだから美味しいとか

そんな具合に。

私はそれは違うと思うのです。

オーガニックだから美味しいのではありません。

また

慣行栽培だから美味しいのでもありません。

自分自身が美味しいと感じたから美味しいのです。

そしてそれが

偶然にもオーガニックだったのです、

偶然にも慣行栽培の野菜だったのです。

つまり、

美味しさとは

食べ物と一人一人との人間との相性の度合いを

見極める物差しみたいなものです。
 

その物差しは、この投稿の冒頭から述べている通り

相対的なものです。

他人と比べるものでもありません。

自分の中での絶対的な基準もありそうでないものなのです。

相性度合いを見極めることの何が良いのかというと、

美味しいものを食べて暮らしていきたい

という純粋な欲求を満たし続けてくれるからです。
 

他の人はどうかわかりませんが

私は食いしん坊だし

美味しいものを食べて今日も明日も明後日も

過ごしたいと考えています。
 
 

まだ未知なる味がきっとあることでしょう。

一度は味わってみたい味もあるのです。

例えば

富士山の上でおにぎりを食べたいとか

ピクニックで自分のところの野菜を

使ったサンドイッチを食べたいとか

いろんな欲求があります。
 
 

そしてそれは、自分の内なる思いから

湧き上がってきたものです。

 
 
ここまでくると結局何が言いたいのか

わからなくなってきました笑。

時々私はそういう時があります。

誰に向けて書いている文章なのだろうと。

でも一番は自分に向けて書いているのです。

自分にとって大切なことを再確認できた

一日でございました

会場準備等本当にありがとうございました。

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この投稿があの時のこの人に届きますように。

短冊に願いを込めて。

最後までお読みいただきありがとうございます。
 

 
 2022/08/13更新情報
*余計な内容整理しました*