畑からの帰り道。
道路を横切る、赤色の鳥がいた。
雉の色違いバージョン、赤色の雉で
まるで色違いのポケモンを見つけた時の
興奮を覚えた。

鳳凰、と言われれば確かに鳳凰。
あとを追っかけて写真をとりましたが
超、遠くから。
 
 

こっちもびっくりしたからあっちもびっくり
したのね。
 
 ちなみにこちらがヤマドリ↓

MeGeMさんによる写真ACからの写真

 
家に帰って調べてみると
鳥綱キジ目キジ科ヤマドリ属
で雉ではないみたい。
 
雉は無限にみてるくらい
いっぱい見てるが、
ヤマドリは人生で初めてみた
 
こういう感動を
忘れないようにしたい。
僕はよく忘れる…
 
ふと思い出したのが、
 
先日、国立極地研究所が発表した
雉オーロラ(僕が勝手にそう呼んでいる)に関する記事だ。

https://www.nipr.ac.jp/info/notice/20200316.html
 
まとめると、
 
昔、日本ではオーロラが見えた
当時の言葉でオーロラは「赤氣」という。
日本のような中緯度で見られるオーロラは
扇型赤色をしている。
(写真はリンク先でご確認あれ)
 
・そしてそのオーロラを雉の
「母衣打ち(羽を開くような感じ)」という技に例えた。
 
という記事が雉オーロラである。
 
さて、極地研究所のHPには
オーロラの絵と共に
雉が母衣打ちをしている写真を
載せている。
 
正直、僕はそれを見て、
 

まなべまなべ

どこをどう見たら赤色オーロラに
 見えるのかさっぱりわからなかった。

 
 
極地研の人は、次のように書いている

 
<<<引用始め>>>
 
それ(オーロラ*筆者注*)を見て驚いた当時の倭の人々が、
天の使いと考えられていた雉の、
ときおり魅せる美しい尾羽に例えたことは、
十分に納得のいくものと言えるでしょう。
ただし、現代の鳥類研究者でも、
雉が尾羽を扇形に開く様子を
目撃することは多くありません。
日本人のルーツとなった倭の人々の、
鳥との距離感や観察眼の鋭さを前提とする
必要がありそうです。
・・・
中国で見られたオーロラは、
旗や城に例えて恐れていた例が一般的なのに対し、
同じ自然現象を見た倭の人々は、
美しい動物に例え表現していたことは、
倭の人々の感性をうかがい知るうえで、
今後の人文学的な研究にも一定の視点を与えるものです。
 
<<<引用終わり>>>

 
 
僕には、
 
「今の人間が雉の羽を広げる姿をみても
 赤色オーロラに見えない。大昔の人は、
 観察眼が鋭かった。昔の人すごい。」
 
とひねくれて解釈した。
 
確かに昔の人の感性は鋭いと思う。
今の人間の感性が鈍っているとも思う。
(もちろん私も含め)
 
でも、雉オーロラに関しては、
納得がいかない。
 
先ほども申しあげた通り、
 
どっからどうみても、
 
雉が赤色に見えることはないからである。

昔の人は、雉に例えたというより
ヤマドリに例えたとした方が
整合性がとれるのではないか
と思った
 
なぜなら、ヤマドリは赤色だし、
雉の仲間だから、
雉と呼んでも問題ない(と思う)し、
 
赤色じゃないものを
無理やり赤色に観るのは
感性が鋭いというより、
偏見に満ち溢れた見方だと思うから。
 
だから、当時の人は
雉じゃなくてヤマドリを
赤氣に例えていた、という方が
納得しやすい

 
よって、
雉オーロラの記事に載せてある
雉の写真を「ヤマドリ」に
変更すれば整合性が増すと考える
のは僕だけでしょうか。

それとも
僕の感性が鈍りすぎているのか。
 
 
 
ーおしまいー

更新情報
2022/08/13
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