飯舘村の朝

思い当たる節があって福島県飯舘村を訪れた。
農業が本格的に始まる前にどうしても訪れたかった場所だ。

思い当たる節というのはまた後日お伝えしたいと思う。

原発反対、原発賛成の立場に関わらず、事故後の現状を自分の足で体感しておくことはとても大切なことだと思っている。       
             
だから、現状を知るには僕の記事を読むより
現地に足を運ぶのが一番手っ取り早い。(文字、写真を眺めるのと現場に行くのでは、感じ方、その差、5,000倍くらいだと思っている(自分比))

賛成の立場で物事を見ると原発あって良かったとう情報しか入ってこない。逆も然り。
まずは現状を把握すること。
僕が知りたいのは”事実”である。

原発事故後の福島県を訪れるのは二回目だ。前回は仲間とともに福島第一原発の近く国道6号線沿いや富岡町を訪れた。
前回の感想はこちら↓
【2018/01/29 原発事故後の福島を見てきました】
https://www.facebook.com/manabe.farm/posts/526822807701221

今回は、長野から車を運転して訪れた。

軽トラ
僕の愛車

往復約800キロの道のりであった。滞在時間は一日程であったが素敵な出会いにも恵まれ有意義な時間を過ごすことができた。
その感想をシェアしておきたいのでこうして文字に書いている次第である。

それなりに長い記事になっていると思う。
興味のある方は下記目次を頼りにお時間のあるときに目を通していただければ嬉しい。

 

ー目次ー
☆悔しいほど美しい朝
☆道の駅「までい館」での思わぬ出会い
ー以上ー

☆悔しいほど美しい朝
飯舘村は福島第一原発から約60キロ離れた場所にある。原発事故後、不運なことに太平洋側から吹く風によって放射性物質が運ばれ、雨や雪に混じり死の灰が降り注いだ場所である。

村民は、強制避難の対象となり、村を出て行かざるを得なかった。

ただ、強制避難とはなったが封鎖の対象とはならなかった。
そのあたりの話はフリージャーナリスト烏賀陽弘道さんの記事を参考にした。

https://note.mu/ugaya/n/n7e413d3029a6

(上記サイトは有料コンテンツとなります。念のためお知らせまで)

 

要は、強制避難区域ではあったが誰でも立ち入ることができる場所でもあった。
そして、2017年3月31日避難命令が解除された。
解除されてから一年が経つ。

先に挙げた記事によれば、
“2011年3月11日当時約6500人いた村人のうち、帰ってきたのは618人にすぎない(2018年3月1日現在)まだ6,000人近くが村外での避難生活を続けている。つまり「福島第一原発事故で村人の9割がいなくなってしまった」という計算になる。”

 

面積、230㎢あまりの村にたった600人しか住んでいない。
ちなみに僕の地元の香川県三豊市は、人口64,000人。
その面積は220㎢。
面積だけを見れば飯舘村とほぼ同じ大きさだ。
自分の地元の町に死の灰が降り注いだと思うとゾッとする。

2018年4月2日長野を出発。
同日午後9時、福島県飯舘村、道の駅「までい館」に到着。
こちらの道の駅は、2017年8月にオープンしたばかりで駐車場が広く居心地が良さそうであった。

よって、

ここをキャンプ地とした。

その名の通り、キャンプ感を出すためテントを立てて一夜を明かす事に決めたのだ。月明かりが綺麗だった。
軽トラの荷台に登山で使っていたテントを立てる。
3年ぶりの作業だ。
荷台にテントを乗せた。

ここをキャンプ地とする

はみ出た。(笑)

僕は荷台のサイズとテントの床のサイズとがぴったり収まると想定していた。
想定外の事案が発生した。
ただ、問題はない。

ほんの少し5センチばかりはみ出ただけだ。
軽トラのアオリを下ろせば解決する問題であった。

ここをキャンプ地とする。

僕は一人で呟き、寝袋の中に入った。
脚がのびのび伸ばせて寝られるなんて素晴らしい事だ。
今日も1日お疲れ様でした。トラ君(軽トラの名前)と自分の身体にありがとうと感謝を込めた。

翌朝。
4時くらいに目が覚めた。
寒いし喧しい。
10メートルくらい離れた場所でディーゼル車がアイドリングをして駐車していた。耳栓をしていたがその音は遮ることはできなかった。

寒い。布団から出たくなかった。
(もちろん、布団ではなく寝袋なのだが)
ただ、だんだんとあたりが明るくなって来ていたので
意を決してテントから顔を出し、体を出し、
歯を磨くため道の駅のトイレに歩いた。

昆虫の脱皮のようだ。

明るくなった空にはまだ月が顔を出していた。

太陽の出番はまだだ。
空気は清んでいた。

僕は朝日を見にいくため早々にテントを片付け車に乗り込んだ。
トラ君、今日も1日よろしくお願いね。

自分の朝日綺麗に見える場所レーダーを頼りにだいたい適当な場所に車を走らせる。
フレコンバッグの山が姿をあらわした。

村に到着した時は真っ暗で村の様子を伺い知ることはできなかったが徐々に様相が見え始めた。

ちなみに、フレコンバッグとは除染で出た放射性廃棄物を入れている袋である。
土砂や草木が入っている。
一袋は結構でかい。それがまとまって、田んぼや畑の中に置かれているのである。
そこへ近付くことはできない。
周りはフェンスで囲まれている。

フェンスには次のような看板が掲げられていた。

【除去土壌等保管場所の空間放射線量 
 0.21μSv(マイクロシーベルト)/h(計測値地上1m)測定日 3/26 14時 】

因みに、
1ミリシーベルト(1mSv)
=1000マイクロシーベルト(1000μSv)
である。

例えば、この場所で24時間365日全裸で生活したとしよう。(実際にはありえない話であるが)
このケースの場合、年間の被ばく線量は次のような計算式で求められる。

まず、1日あたりの被ばく線量を計算する。
0.21μSv(1時間あたりの被ばく線量)×24(時間)
=5.04μSv/1日
それが365日なので

5.04μSv/day×365
=1839.6μSv/年間

よって、一年間の被ばく線量は1839.6マイクロシーベルトと計算できた。
ここでは小数点を捨て1840マイクロシーベルトとする。

これをm Sv(ミリシーベルト)に換算すると、
1ミリシーベルト(1mSv)
=1000マイクロシーベルト(1000μSv)より

1.84m Sv(ミリシーベルト)/年間
となる。
因みに、測定日同日の新宿区では
0.037μSv(マイクロシーベルト)/hであった。

これも先ほどと同じように、
24時間365日全裸で生活すると仮定し
(実際にはありえない話ではあるが)一年間の被ばく線量を求めると、

0.324m Sv(ミリシーベルト)/年間
と計算できた。

僕が訪れた飯舘村のフレコンバッグ置き場で24時間365日全裸生活するのと新宿区で24時間365日全裸生活するのでは
5.7倍
の差がある。

更に因みに、原発事後に関係なく、私たち日本人の
一年間の被ばく線量は、約2.1mSv(ミリシーベルト)である。
食品や大気、大地から自然放射線を受けている。

話を戻そう。

朝靄が村全体を覆っていた。
畑と朝靄の組み合わせは本当に綺麗だ。
ただ、その場所にはフレコンバッグが積み重ねられている。
朝日を拝めそうな場所に車をさらに走らせる。

どこかいい場所ないかな。
どこかいい場所はあるはずだ。
どこかいい場所は見つかっている。
と独り言をブツブツ言いながら。

すると面白いもので、見つかった。

メインの道路からは外れているが交通量も少なく、ゆっくり時間を過ごせそうだ。
ただこの場所にもフレコンバッグの山がある。
もちろん、先ほどと同じようにフェンスで囲まれている。

看板には【0.32μSv/h】の記載があった。

車から降り、息を吸う。
鶯が鳴いていた。
僕が認識できる鳴き声は鶯だけであったが他にも鳥の鳴き声が里山に響き渡っていた。
東の山から太陽が顔をだす。
いつ見ても綺麗だ。

1日が始まろうとしている。
隣にはフェンス。
フェンス越しに見える小さな丘のようなゴミのかたまり。
この場所も昔は畑だったと思うと切なくなった。
気付けば僕はその丘の上に立っていた。
(フェンスの中の丘の上になぜ立つことができたのかここでは深入りしないでほしい)

フレコンバッグの集合体には緑色のシートがかけられている。
所々、水たまりがある。
近くの林の木々が水たまりに反射して映っている。

春を呼ぶ小鳥のさえずり。

太陽の光が水面に反射し輝きを増していた。
なんとも言えない美しい朝の訪れだった。

ただいつもと違うのは、
僕が丘に立っているということだけだった。
汚染された丘の上に。

あと何年も何十年にも渡ってこの光景が村を彩るのだろうか。
故郷を離れた村民はどんな気持ちなのだろう。
やるせない気持ちになった。

このやろー!と丘をふんずけてみた。何も変わらない。
フレコンバッグは強敵だった。僕一人の右足のキックでは微動だにしなかった。

相変わらず、小鳥が鳴いている。
「沈黙の春」ではなかった。

生物たちの鼓動は聞こえるのだ。
朝露に照らされた草。
水たまりで動く生き物。
ただ、人間だけがいなくなっていた。

これほど、美しく、悔しい、
朝は初めてだった。

☆道の駅「までい館」での思わぬ出会い

せっかくなので、道の駅「までい館」を訪れようとした。
オープンは午前10時。しばらく時間があったので近くの神社に参拝に行った。

その道中。道脇にはフキノトウが顔を出していた。
天ぷらにするには大きくなりすぎか。
ここでも春の訪れを感じることができた。

ただ、後々、気づくことになるのだが、
この時はまだ知らなかった。

もしかしたら、食べられないフキノトウだったかもということに。

オープンの時間を迎えた。
因みに「までい館」のまでいとは、「ゆっくり」「ていねいに」という意味の福島県北部の方言らしい。
館内はとても綺麗だった。

綺麗な花が玄関には飾られていた。
これ本物の花?造花ではなく?と一瞬疑ったが
本物の花であった。失礼しました。
気になる物が置いてあった。

「食品放射性物質測定装置」だ。

説明によれば

“・この検査は自分が食べるための確認検査です。
・検査結果の如何によらず、人に譲ること、販売することはできません!
・譲渡、販売をする場合は、福島県が毎週実施しているモニタリング検査を受験する必要があります”

なるほど、あくまで自家用に限るという話だ。

ここで食品から取り込まれる放射性物質の基準値について整理しておく。

消費者庁のHPを参考にした。これからあげる数字はあくまで消費者庁から発表されている数字である。

単位はbq(ベクレル)が使われる。
bqというのは、なんぞやという説明は長くなりそうなので(サボったw)
ここでは、そういう単位が使われているのだという認識で話を進めたいと思う。

食品(ここで述べるのは主に農産物)を検査して
*100bq/kgを超過したものは、市場には流通されない*
つまるところ、
例えば、小豆を1kg検査して、100bq以上の検査結果が出たならば市場には流通されない。

小豆が世の中に流通しなければ餡子も生産できない。
餡子がなくなれば和菓子もなくなる。
和菓子もなくなれば柏餅が食べられない。
柏餅が食べられなければ、子供の成長を祝う行事がひとつなくなる。
という、小豆クライシスも予想できる。

では、実際、原発事故後どれくらいの数が基準値を上回り出荷停止になったのか。

一例として僕の好きな豆類をあげてみる。
平成24年産・・・検査点数5,962 基準値超過点数63 超過割合1.1%
平成25年産・・・検査点数5,167 基準値超過点数21 超過割合0.4%
平成26年産・・・検査点数3,459 基準値超過点数4 超過割合0.1%

以上の数字が確認できた。

話を道の駅「までい館」の放射性物質測定装置に戻そう。
ここでも国が定める
100bq/kg 
の基準値が採用されていると思いきやそうではない。

実は、放射性物質を測定する方法は何種類かある。
イ)食品をそのまま装置に入れる方法。(非破壊検査)
ロ)食品を細かくして装置に入れる方法(破壊検査)など。
方法によって精度も変わってくる。
上記の場合、イ)よりもロ)の方が精度が高い。

道の駅に設置されていた装置は
イ)の方法で放射性物質を測定する。

精度がそこまで高くない。
だから、念のため、この装置の検査結果は国の定める基準よりも厳しめに
設定されている。
その基準が50bq/kg
だ。

例えば、道の駅の装置の結果が
70bq/kgだったとする。

国の基準では問題ないのだが、測定方法に誤差があることを見込んで
アウト!という基準を設定している。

繰り返しになるが、この装置で得られた検査結果を参考できるのは

あくまで自家用に限る

だ。

さて、道の駅内を散策していると額縁にこんな言葉が書かれていた。
『いつか帰らん 愛のふるさと』

村の農産物やお花も販売されていた。
下記、店員さんと僕の会話をまとめたものだ。
**
これから飯舘村は、植物工場も作るかもしれないよ。
役場の近くのソーラーパネルすごくたくさんあるよ。
花もハウス栽培でこれからアピールしていくよ。
エンドウもこれから収穫が始まるよ。
何人か若い農業従事者も村に入ってきているよ。
君もおいでよ笑
**

そんな感じだ。
印象としては、これから飯舘村を復興していこうという感じを受けた。
僕は飯舘村産の人参を買った。

館内から外に出ようとすると
なんと!
例の放射性物質測定装置を使っている人を見かけた。
気になるので観察する。
どうやら村内各所で収穫したフキノトウを検査しているらしい。
少し話をしてみる。

**
名前は伊藤延由さん。
震災前の2010年に飯舘村に越してきて農業をしている(た)。
震災後も避難せず、村の生活と実家のある新潟を行き来している。
胸ポケットには、一日の被ばく量を測定するカウンターが入っている。
その数字を毎日ツイッターにあげている。
家には、破壊検査装置がありフキノトウも検査する。
正直、もうこの村は住むところではない。
そう語っていた。
**

実はこの伊藤さん。
なんと、烏賀陽弘道著(2014)「飯舘村の四季」にも登場する。
もちろん、烏賀陽さんの事も知っている。
僕も烏賀陽さんのnoteや書籍を読んで訪れたことを告げる。

世間は狭い。

これから道の駅まてい館で測定したフキノトウの検査結果を
発表する。

ドゥるん♪(←謎の効果音を挟んでみた)

フキノトウは村内五ヶ所から収穫したものだ。
地名を聞き損ねたのでここでは数字で示すものとする
 
1)検査結果()・・・51.3bq/kg
2)検査結果(◯)・・・14.7bq/kg
3)検査結果()・・・73.9bq/kg
4)検査結果()・・・56.9bq/kg
5)検査結果()・・・57.8bq/kg
以上の検査結果より

食べてもいいよとお墨付きをもらえたのは
2)で収穫したフキノトウだけだ。

もちろん実際食べるかどうかは個人の自由である。

この後お昼になるのでよかったら一緒にどうか
というお誘いを受けた。
お言葉に甘えて村内の自宅にお邪魔した。

タイミングよくライターさんお二方と地域の住民、杉岡さんと
一緒にお昼を食べることができ、いろんな話をした。

杉岡さんも伊藤さんも
「ここは住む場所ではない」
と。調査をするにはいい場所だけれども。
自分らみたいな老人はいいんだよ、もう先も長くないだろうから。
でも、子供達や若い世代はどうなのかね。
・・・

深刻な話をしているのだが、
時々、笑う事もある。二人の笑顔は素敵だ。

この土地で暮らしてきた歴史が流れていた気がした。
庭の畑で土壌に含まれる放射性物質も検査している。
そこで育てた作物にどれだけ放射性物質が移行するかも合わせて検査している。

下記のデータは伊藤さんの講演資料から拝見した。
http://iitate-sora.net/wp-cont…/…/2017/03/f2017_abst_ito.pdf
(↑引用元)

僕の好きなじゃがいも(品種は男爵、2016年測定)にフォーカスしてお届けしたい。

土壌に含まれる放射性物質は、
2,794bq/kg
である。畑の土を1キログラム採取し測定器に入れて検査した結果である。

その土でじゃがいもを育て、収穫する。
収穫したじゃがいもも同様に検査する。
その結果がこちら
9bq/kg
だ。

つまるところ、
0.3%ほど土壌からじゃがいもに放射性物質が
移行したことになる。

ちなみに、農水省のHPによれば
原発事故の影響がないと思われる地域の土壌中の数値は
0〜500bq/kg
である。

先ほど申し上げたように、じゃがいも畑の土壌は
2,794bq/kg
であるが、もっと大きな数字も資料からは確認できた。
(山の中の土壌など)
確認したい方は直接その資料を見ることをおすすめする。

これまで数字をいくつかあげてきたが
これは、データ(事実)に当たる。

例えば上記のデータから
じゃがいもは食べるべきではないという主張もできるし
じゃがいもを食べてもいいという主張もできる。

フレコンバッグの丘の上で全裸で踊り続けても良いという主張もできるし
フレコンバッグの丘の上で全裸で踊り続けるべきではないという主張もできる。

どちらの主張にせよ
上記にあげた

【データ、数字が人体にどのように影響を及ぼしているのか】

それを知る必要がある。
さらに、そのデータも疑ってかかる必要がある場合もある。
測定方法、やり方間違ってない?
とか。

発表されている数字が100%正しいとも限らない。
そもそも絶対的に正しいのもはこの世に存在しない。

だから、安易に
安全だ!安心だ!とも言えないし
危険だ!危ない!とも言えない。

これはディベートをすればとても面白そうだ。

村に住んでも大丈夫という主張も
村に住むべきではないという主張も
あっていい。
どちらをとるかは自分の頭で考えるしかないと思う。

僕は、食品に興味がある。
【データ、数字が人体にどのように影響を及ぼしているのか】
そのあたりの部分はもっと勉強してみなさんに情報提供していきたい。

行政は、村の学校を再開するするという決断をくだした。
子供が村で学校生活をしてもいいだろうとそう考えたわけだ。

道の駅に置いてあったパンフレット
「ふるさと飯舘!!新かわら版」
によれば

30年度の子ども園学校への就学希望者は
97名。
震災がなかった場合の就学予定数は640名。
震災前の15%程度子どもたちは戻ってきた計算になる。

そのニュースがこちら。
【飯舘村7年ぶり学校再開 弾ける笑顔に苦渋の決断も】
https://youtu.be/ts9yrkrwhvY

被災地の復興が進んでいるよと印象付けたいものにとっては
いいニュースだろう。

でも、僕は、なんだかもやっとしている。

伊藤さんに出会えたことは幸運であった。
ツイッターやフェイスブックでは
データを毎日報告されている。
興味のある方はフォローして見てはいかがだろうか。
出会いに感謝である。

日も暮れてきたので僕は長野に帰ることにした。
お礼に軽トラに干していた干し柿(地元香川県産)をプレゼントした。
干し柿にとってみればざっと
1,000キロの旅路(香川→フクシマ)であった。

飯舘村のクライマックスは
道の駅の店員さんから教わった太陽光発電を見に行くことにした。

飯舘村の役場の近くがすごいらしいとのことだ。
道の駅近くにも大きな設備があったがそれをも凌駕するのであろうか。

予想をはるかに上回った。

富士山を間近で見たときの興奮に似ていた。
続くよ続く、

夕陽に照らされる畑。

ではなく、

太陽光発電パネルが。

ほんまにすごい面積だった。
先述の烏賀陽さんnoteによれば、

” 飯舘村は、民間企業と共同出資で太陽光発電事業を運営している。最大のものは、村がNTTファシリティーズと共同で始めた「F飯舘太陽光発電所」である。31万平方メートルの面積に、太陽光パネル7万6626枚を設置し、2万3900メガワット(約6,600世帯分)を発電する計画だという。”

どうりですごいわけだ。
僕は、飯舘村の光景を目に焼き付け
帰路についた。

以上が僕の飯舘村訪問記になるのだが、
どうしても考えたいことがあった。

それは、
故郷を失う
ということについてだ。

まぎれも無い事実は、
飯舘村は原発事故によってかつての村ではなくなった。
これだけはまぎれも無い事実であろう。
失ったものはもう二度と戻ってこない。

飯舘村に限った話ではない。
ダム開発で消えた村。
公害で消えた村。
戦争で消えた村。

例をあげれば枚挙に遑がない。

ただ、ふるさとを失っても
死ぬわけでは無い。

確かにそうだ。
そうかもしれない。

けれど、けれども
ふるさとで見た光景
食べたもの、遊んだ場所
それが失われる。

実は僕の曽祖父の代も同じような目に遭った。
先日、軽トラをゲットしに香川に帰った際、
何かもやもやしたものを感じていた。

詳細は省くが、僕が生まれてからは
僕の育った場所が僕のふるさとなのだけれど、
爺さん婆さんにとってはふるさとを奪われたことを
体験している。

その体験をした爺さん婆さんに育てられた両親。
その両親に育てられた僕。

育った世代は違えど、故郷を失った感じは
(なんと表現すればいいかわからないが)
世代を超えて引き継がれるものだと思う。

何か感じるのである。

最後までお読みいただきありがとうございました。