my favorite ジャーナリストの烏賀陽さんが
noteの新作を出したので購入しました。
今回は、先日、ニュースでも取り上げられた、
JR常磐線の開通に関する記事です。
 

 

フレコンバック
飯舘村にて真鍋が撮影
2018.4

 
私は大手メディア報道にはなんら期待していません。
ですから、ちゃんと報道してくれるジャーナリストから
記事を直送してもらっています。
(野菜を直接農家さんから買うようなものです)
 
なぜこうするか、といえば、
マスコミは事実を伝えないからです。
 
烏賀陽さんの言葉を借りれば、
 
「嘘も言っていないが本当のことも言っていない」
 
それがどうしてダメなのかというと、
知りたいことを知れないからです。
 
知りたいことを知れないとなぜ
いけないかといえば、
 
現実を正しく見ることができないからです。
 
現実をただしく観ないと、
最善の行動する判断を誤りかねないからです。
 
雪道をちゃんと雪道、と言ってくれれば
スノータイヤを履いて出かけられるのに、
雪道なのに、道としか言ってくれないと
困るのです。
 
こんな簡単な話は誰にも理解できると
思います。
でも、遠い地域の話や
自分とは関係ない話すぎると
 
・知る能力が欠如
・判断能力が欠如
 
してしまいがちです。
 
私もそうです。未熟が故、
自分で鞭をうって疑問を持ちながら
生きています。
そのせいで時々絶望してしまい、
この世が真っ暗に見えてしまいます。
 
現実をみ、最善の行動をとる、
これをミスったら「死」に
直結します。
私は死にたくないので
できるだけ死から遠ざかるように
生きていたい。
 
そのためには、
平和であることが一番です。
 
 
手元に、『報道の脳死』新潮新書,2012
があります。それも合わせて読み直しました。
 
>>引用始め>>
 
報道とはつまり
「国民の知る権利の代行者」であり
「市民を権力から自由にするための情報を
運ぶ仕事」だと私は考えます。この国の
「報道の不能」は「民主主義の不能」の一部でもある。
この本では、報道の不能を端緒に、
この国の民主主義の危機を考えたいのです。
 
>>>引用終わり>>>
 
 
 
最終的に、私は、報道が死んだら
戦争まっしぐらなのではないか、
と考えています。
 
「戦争」というわかりやすい、
どんぱちをやり合うのではなく、
 
「戦争」という言葉さえ、
知らぬ間に、書き換えられ、
平和のように見えて実は
戦争、をしている可能性だってあります。
 
「報道の脳死」にも触れられてあった、
小説ジョージオーウェル「1984」の中の
世界が現実に起こっている、
可能性も否定できないのです。
 
その小説に書かれてある恐ろしい結末は、
「内心の自由」がなくなることです。
 
内心の自由は、
自分が物事を自由に考えることができる
信条の自由です。
 
好きな人を好きになれる
美味しいものを美味しいと思える
まずいものをまずいと思える
嫌いな人を嫌いと言える
…etc
 
そういうのが人間の内面の素晴らしい点です。
でも、それさえ、国家が本氣になれば
制限することができるのだ!
と書いているのが「1984」です。
 
愛する人を愛すると思えない
美味しいものを美味しいと思えない、
 
そんなこと起きうるはずないでしょうか?
 
でも、日本では、
すでに現在進行中で起きているのだ、
と思います。 
 
故郷が破壊され
帰れなくなった住民、
そこには、目を当てず、
セレモニー記事を垂れ流す
メディア。
 
すでにこれが物語っています。
 
報道記者も現場に行けば
ゲートに塞がれた、
無残な建物を見ることができていたはず。
 
でも、それを無残とさえ思わず
ただ淡々と仕事をこなす
人間に心はあるのでしょうか?
 
そして、その心の通ってない記事
もちろん、報道に心を通わせなくても
事実だけを報道してくれればいいので
そこは関係ないが、
を読んで、何も感じない読者も
同時に狂いはじめている、
 
と私は感じています。
 
私が烏賀陽さんを応援するのは、
事実を報道してくれるのはもちろん、
写真を通して人間らしさを伝えて
くれるところです。
 
残酷な現実の中にも、
水仙が綺麗な花を咲かせている
姿に私は感動しました。
 
きっと、彼ら(植物)にとっては、
私たちの起こっている現実は
知ったこちゃないのでしょうけど、
 
君たちは美しい。
 
僕はそう感じました。 
 
ということで、
 
オススメのノートです。