身近な戦争の話をしよう。
そんなに遠くない。話。
普段、私はふざけた文章を書いているけれど、
この話は事実である。
正直、あまり氣分のいいものではない。
なんども資料に目を通してきた。
親戚のお婆さんにも話を聞いた。
史実と当事者の話とを噛み合わせた。
これは間違いなく事実で、
私のずっと生まれる前、
私の曾祖父の頃の話。
戦争の話。
–2019年-
今、”この場所”には
国立香川高等専門学校詫間キャンパス
と
神島化学工業株式会社詫間工場
とがある。
でもその前は、
神風特攻隊が出撃する基地であった。
(詫間海軍航空隊)
戦争が終わって、
基地は不要となったから、
工場になったり
学校が建てられたりしたわけだ。
でも、
基地ができたのも戦争があったらで、
戦争がなかったときは、
普通に人間が暮らしていた
ふるさとがあった。
何にもない場所に、
特攻隊の基地が作られたわけではない。
そこに暮らしていた
人々の暮らし、を
破壊して基地が作られたのである。
田んぼ、砂浜、ため池、
神社、仏閣、
あらゆるものをコンクリートの下敷きにした。
そこに住んでいた人の心さえも。
=昭和16年=
この場所の名前は、
”香田(こうだ)”という地区のことである。
香川県の西の方にある場所。
『豊かな田があり、畑があった。
周囲の山々は緑濃く
前には白砂青松の松原が美しく続き、
遠浅の海が広がり、
その先には粟島や
志々島等々瀬戸の島々が箱庭のように浮かんでいた。
数百メートルにも及ぶ長く広々とした海岸線、
松原、白砂の浜そして、
これに続く遠浅の海は、海水浴場には最適であり、
また、干潮時には多くの干潟が表れ、
そこには蛤や海老、小魚等がたくさんいた。』
(-詫間海軍航空隊物語 : 戦後五〇年誌より)
・
・
・
・
・
正直なところ、
ここまで書くだけでも
だいぶしんどい。
なぜ、こんなに美しい村が
2,000年にも及ぶ村の歴史が
その営みが、
破壊されなければならなかったのか。
住む場所を強制的に奪われた150世帯の家族は、
慣れない土地へ移転した。
移転せざるを得なかった。
強制移転させられた世帯の名簿は今でも確認できる。
その中には、
私の曾祖父の名前もある。
・
・
・
・
今日はもうこの辺でやめよう。
おやすみなさい。